マジカル恵美押勝
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- 今回は写真が 100 枚くらいあるのでさらっと。
先週、伯母の初盆で長門へ行って、帰りに兵庫・大阪に寄ってきたのですよ。
ただし万博には行ってない。
行きの新幹線。たまたまですが、広島からはキティさん新幹線でした。
1号車はキティさんショップになってます。
8/6 に行って叔父の家で一泊、翌朝、法要を済ませて食事をしてから
新山口駅まで車で送ってもらって新幹線で新神戸に向かいました。
新神戸駅ホームの窓の外、どうなっているのか子供のころからずっと気になってました。
こんな風景です。左のほうには道があって、そんなに山の中という感じでもなさそうでした。
電車を乗り継いで西宮神社へ。新年明けたらみんなが猛ダッシュするあそこです。
ゑびす神社の総本社。
あまりに暑いからか、社会人はまだ平日だからか、境内も閑散としています。外人もいない。
ただ、駅から神社までのあいだにもたいして観光地らしい店がなくて、
周辺も栄えている感じでもなく、わりとひっそり建ってるなという印象でした。
境内は広くて大変立派な趣です。
みんな年明けに殺到。
さて、福の神さまなので、当然のように株で大儲けをお祈りするわけなのですが、
そのあと引いたおみくじがこちら。
そんな、ひどい……。
今年は新年の蒲田八幡宮のおみくじが大吉だったのでまだ心穏やかに保っていられますが、
ここまで否定されるとさすがにいい気持ちはしないですよね。
じつは妹も番号違いの凶を引いているので、
もしかしたら欲深い者たちへの戒めのために普通より凶が多いおみくじなのかもしれません。
仕事は楽ちんで株は大儲け、ってとこが気に障ったのかしらね。
御朱印をいただいてみたりしました。
御神影札なるものも。
大黒さまとゑびすさまの御神影です。福がありますように。
さて、西宮にきたのは、母が亡くなって相続手続きした際に
結婚前の戸籍が西宮にあったからでした。
相続手続きとしては、母の出生からの各地の戸籍を全部集めて
他に相続人がいないことを確定する必要があったわけですね。
相続税が発生するほどの遺産はなかったのですが。
戦前は西宮に祖母方の屋敷があって、武具などとともに旧家臣に預けて東京とか満州とか行って、
戦後戻ってきてみればいつのまにか勝手に売り払われていたという哀しいお話。
戸籍の住所が現在の西宮市役所になっていたので、
まあそこに屋敷があったのかどうかはわかりませんが、
とりあえずそのあたりを少しぶらぶら回ってみたというわけでした。
市役所の裏手にある臨済宗のお寺。
母方も臨済宗だったので、もしかしたら縁のあるお寺だったのかもしれません。
門に何か書いてあります。
「わたしのなかにもうひとり すてきなわたしがおるね…ネ」
最後、ちいかわっぽくなってますが、こういうの禅宗らしいですね。
さてホテルのある尼崎に移動しようと阪神線に乗ろうとしたら、
めちゃくちゃ阪神な電車がやってきました(笑)
阪神線の尼崎駅から歩いて5分くらいのところにあるホテルにチェックイン。
夕飯を食べに駅前に出たのですが、先導を任せていた妹がどうやら道を間違えたらしく、
まるで導かれるように思いも寄らぬ場所に着いてしまったのでした。
尼崎ゑびす神社です。
西宮神社での扱いがあまりにひどかったのでとりなしてくださったのでしょうか。
手前にめちゃくちゃ巨大な大鳥居があるのですが撮り忘れ。
こちらは祭神を事代主(コトシロヌシ)と書いてありますね。
国津神の主である出雲大社の大国主(オオクニヌシ)の息子が事代主神です。
大国主神が大黒さま、事代主神がゑびすさまと同じ神とみなされています。
大国主神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の六代目か七代目の子孫ということになっており、
妃は素戔嗚尊の娘のスセリビメということです。
そのあと天照大神と素戔嗚尊の娘である宗像三女神の長女タギリヒメを妻にしたり、
カムヤタテヒメを妻にして事代主神が産まれたりしています。
宗像三女神のうち古事記では次女、日本書紀では三女とされるイチキシマヒメが
弁財天(弁天さま)と同一視されています。なんと七福神のうち三神がえらく近い関係に。
ちなみに初代天皇である神武天皇の后が
事代主神もしくは大物主(大国主神の幸魂奇魂と云われる)の娘とされるヒメタタライスズヒメです。
つまり神武天皇というのは、
父方が天津神の主神である天照大神の子孫、
母方が国津神の主神である大国主神の子孫なわけですね。
なぜか神社の公式サイトにも紹介のない三猿もいます。
何か禁忌でもあるのでしょうか。それとも単なる戒めか。
西宮神社での凶をキャンセルしてくださいとお願いしたあと
こちらでひいたおみくじは小吉でした。
ただ、とても小吉とは思えないほどいい感じの内容です。ありがとう尼崎ゑびすさま。
最後「あります」が字余って小さくなっているところが微笑ましい。
尼崎で一泊したあと、大阪へ出発です。
まずは新大阪駅で荷物をロッカーに預け、電車でガタゴト百舌鳥駅へ。
そうです。地球の鍵穴、仁徳天皇陵を見にきました。
まずは駅前で電動アシスト自転車をレンタル。
はじめて乗ったのですが、めちゃくちゃ楽ですねこれ。
そもそも自転車に乗ったのが数十年ぶりのような気がしますが、
とくに問題なく運転できてひと安心。
さすがに両手離し運転はもうバランスとれず一瞬しかできませんでしたけど
(というか電動アシストされるので一気に進んでバランス崩れて怖い)。
で、そのあと写真のビジターセンターで古墳の情報をあれこれ見学したり、
シアターで映像を観たりしてから、いざ仁徳天皇陵の拝所へ。
これこれ。別名アポロン・ウィンドウです。
地球内部のエネルギーが溢れでてくる地として知られています。
主に昭和末期の小中学生男子に。
とはいえ、最初からわかっていたことではありますが、
あまりに大きすぎて地上からはただの小高い森林しか見えません。
いいんです、それで。
拝所は前方後円墳の「前方」のほうにあります。鍵穴の一番下のところですね。
入れるのは残念ながらここまで。正面にこんもり見えるのが本体です。
マグネット・パワー!
左右はこんなふうにお堀になっています。
仁徳天皇陵はお堀が二重になっているのも特徴ですね。
じつはあの正面にある鳥居の向こう側もお堀になっています。
ちなみに現在の天皇の諱は徳仁(ナルヒト)です。
室町時代くらいから皇族男子の諱には必ず仁の字が入るのだとか。
天皇一覧を見るとたしかにそうなっています。
善政を敷き聖帝と呼ばれた仁徳天皇と同じ徳の字をここで満を持して使ってきたこと、
また天皇が人とされたあと初めて産まれた皇太子である現天皇に
「人と成る」を思わせるナルヒトという諱を付けるというところに
皇室の覚悟みたいなものを感じて、ちょっと好感が持てたりもします。
そのあとすぐそばにある堺市博物館へ。
8月8日。Same numbers です。
来年だったら令和8年8月8日で8並びでしたね。
令和が零輪つまり〇〇をあらわすという話もあるので、無限感が増し増しです。
企画展の金と黒のかっこいい展示とかも観てきました。
通常展示の埴輪とか刀とかもたくさんありますよ。
そのあとはお昼を食べに古墳カレーのお店へ。
ブロッコリー盛り盛りの古墳の森カレーです。中辛にしました。
冷えたブロッコリーがちょっと固かったけどカレーはとても美味しかったです。
こういうの、古墳イベントをきっちり遂行した感があってとてもよいですよね。
とくに古墳は地上から鍵穴見えないので、こういう形で決着をつける必要があるというか。
メニューはこんな感じ。妹は元祖の古墳カレーをちょい辛で食べてました。
そのあと履中天皇陵へ行く途中、妹が道を間違えて七観山古墳(復元)に到着。
Wikipedia によると、大量の副葬品の埋納にもかかわらず、
遺体が埋葬されなかった可能性がある古墳だとのこと。
復元だからか、自由に登ることができます。まあ上には何もないんですけど。
そして履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のビュースポットへ。
このビュースポットというのは前方後円墳の「後円」の側にあって、
ちょっと小高い位置から古墳を眺めることができる場所なのです。
前方後円墳だと思って見れば、なかなか雰囲気あっていい感じじゃありませんか?
何も知らなければ、単に湖の中にある小島という感じではありますが、
それでも綺麗に円いしエッジが立っているので、ひと目でただものではない感はあるかもですね。
緑がこんもり生い茂っています。たしかにブロッコリーみたいですよね(笑)
水面近くをアップで。水際のラインが人工的な感じがします。
反対側の拝所に移動する途中で撮影したもの。こうしてみると間違いなく人工物ですね。
仁徳天皇陵は本体の周囲の二重の堀の間にも樹々が鬱蒼と茂っているため、
こんなふうに本体を眺めることはできません。
なので履中天皇陵のほうが地上で観てまわるには満足度が高いです。
雄大な風景。周囲にビルがないのも素敵です。
じつは住宅街のど真ん中なので、ここも眺めがいいけど
観光地としてはおすすめされないんでしょうね。
※周囲に張り巡らされた柵の隙間から撮影しています。
拝所に到着。
履中天皇は仁徳天皇の第一王子です。第17代天皇。
このあと弟の反正天皇、允恭天皇、その允恭天皇の子へとつづいていきます。
しかし第25代天皇の武烈天皇で仁徳天皇の筋は終わり、
26代目は仁徳天皇の父である応神天皇の別の王子の筋である継体天皇へとつづき、
以降はこの継体天皇の筋が現代までつづくということのようです。
みんな知ってる推古天皇はこの継体天皇の孫。
聖徳太子は継体天皇のひ孫です(推古天皇の兄である用明天皇の子)。
ちなみに仁徳天皇の父である応神天皇が八幡宮に祀られている八幡神さまです。
八幡社では八幡神である応神天皇と、その母である神功皇后、
そして正体に所説ある比売神(ひめがみ)が八幡三神として祀られています。
また、源氏の氏神神社である若宮八幡宮の多くには
応神天皇とその子の仁徳天皇が祀られているとのこと。
若宮というのは八幡宮から分祀された、という意味らしいですよ。
というわけで、八幡さまのお孫さんのお墓にお詣りです。
入れるのはここまで。
仁徳天皇陵と違いお堀がひとつなので、手前の領域が広くとられています。
拡大してみるとこんな感じ。というか最近のスマホのカメラ、解像度ほんとにすごいですよね。
ビジターセンターで購入した自分へのお土産です。
古墳マグネット。
もちろん鉄に貼りつきます。マグネット・パワー!
ダイアクロン隊員がすっぽり収まるかなと思ったけどちょっと小さかった。
キティさんのえらくきらびやかなキーホルダーも買ったりしてました。
裏面。
そして埴輪醤油。
ちゃんと地元で作られています。塩分高いのでどうしよう案件。
履中天皇陵から西へ自転車で数分、石津町を走っていくと……。
日本最古の戎宮、石津神社に到着です。
道路に面して綺麗な鳥居。そして大きな楠がそびえています。
鳥居に掲げられた神額には「石津大社」とありました。
灯籠も「石津大社」です。
かなり大胆にカットされた大楠の下にあるのは「日本笑姿初石津大社」の文字。
こちらは「式内 石津太神社」です。表記揺れが激しいですね。
じつはこの石津神社、927年にまとめられた延喜式神名帳にて
式内小社「和泉国大鳥郡 石津太神社」と書かれた神社とされているのでした。
近くにもうひとつ「石津太(いわつた)神社」というのがあって、
もとは両者はひとつの神社であったものが、ふたつに分かれたとされています。
そしてさらに云うと、昭和4年に刊行された延喜式神名帳の注釈付き書籍が
ネットの国会図書館デジタルコレクションで無料閲覧できるのですが、
そこでは「石津太社神社」とされているんですよね。
で、注釈にあれこれ書いてある。まあ暇なひとは読んでみてください。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1273537/1/53
国会図書館デジタルコレクション「延喜式 第2」P.96
すっかり文字が読めない古そうな碑文。祭神とか由緒とか書いてあります。
これはどうやら「石津神社」のよう。
こちらが境内の説明板。
本殿の脇にも立派な大楠が。涼しげでよいですね。
主祭神は事代主神、大国主神、そして天穂日命です。
本殿の脇のほうに祈願板がありました。
ゑびすさまは少々耳が遠いらしく、板を木槌で叩いてからお願いごとをするとよいそうな。
他のゑびす神社でもそうした板があるらしいのですが、
西宮神社にもあったのかしらん。
とりあえず板を三度叩いて、株で大儲けと仕事楽々をお願いしてきました。
今年は巳年だからか白蛇の巨大絵馬も。
左手奥に見えるのは猿田彦社です。もちろんお詣りしています。
そして写真は撮ってきませんでしたが、
垂仁天皇の時代に殉死の代わりに埴輪を用いることを発案した野見宿祢を祀る宿祢社と、
その子孫である菅原道真を祀る天神社にも当然お詣りしています。
宿祢社には石津王命も祀られています。
この石津王、どうやら皇族だったのが臣籍降下して藤原仲麻呂の養子になったひとらしい。
紀伊守になったあと、この石津神社の神主になったようです。養子になったのはその後なのかな。
当社の御由緒によると
「第四十六代孝謙天皇の勝宝元年(七四九年)行幸啓あり。
同五年、神主紀伊守を内裏に召し禄を給う。同天平宝宇元年、
紀伊守に藤原朝臣の姓を給ひ従三位大納言を授く、河内の狭山、野田の二村を神領とせられる。」
とありました。
Wikipedia によると、藤原仲麻呂(恵美押勝:えみのおしかつ)は
孝謙天皇(後の称徳天皇)に取り入って大いに権勢を誇ったのですが、
後に孝謙天皇が上皇になってから僧・道鏡を寵愛するようになったため、
道鏡を排除しようとしたものの謀反を密告されて返り討ちにあい、
一族郎党皆殺しにされたとあります。
石津王もこのときに殺されたのかどうなのか。
そもそも仲麻呂とどんな関係があって養子になったのか。
Wikipedia の藤原氏の項に
> 奈良時代には皇族が臣籍降下した際、母の姓を受け継いで藤原朝臣を賜姓されることもあった。
とあるので、皇族に嫁いだ藤原氏の子だったのかな。
あるいはもしかしたら仲麻呂かその親族が皇族に産ませた子だったりしたのかもですね。
仲麻呂の養子になったということは、石津王も藤原恵美朝臣を名乗れたのかしらん。
恵美と恵美須、似てますよね。
さて石津神社の次は石津太神社に向かいます。
が、その途中でちょっと寄り道。石津川を渡った先にあるのがこちら。
ここは南北朝時代に北朝の高師直と南朝の北畠顕家が戦った「石津の戦い」で
北畠顕家が戦死したとされる地です。
南北朝時代はいずれちゃんと太平記とか読みたいなと思いつつ
あまり手が出せていないところなのですが、せっかくなのでちょっと拝んできたのでした。
太平風土記はなぜかちょくちょく目にするんだけどなあ(笑)
石津川を渡って戻ります。
石津川流域は古墳時代から平安時代にかけて、
土師器ではなく須恵器を大量生産する場所だったとのこと。
もしかしたら古墳時代にはすでに須恵器が主流になりつつあって、
仕事が激減してゆく土師器生産者(土師氏)救済のために
古墳に埴輪を大量に配置するようになったのかもしれませんね。
石津太神社に到着。
こちらは立派な石の鳥居ですね。
一の鳥居は石造の鳥居で寛永19年(1642年)の銘文が柱に刻まれており、
堺市で最も古い鳥居のひとつとされているのだとか。
鳥居の神額に書かれた文字は
三条実美(さんじょうさねとみ)が参拝したときに揮毫したものとされているそうです。
こちらは延喜式神名帳のとおり「石津太社神社」と書かれてますね。
三条実美は大政奉還・明治維新の立役者のひとりとなった幕末の公卿で、
もうちょっとで初代総理大臣になるところだったけど
英語ができないせいで伊藤博文に総理をとられちゃったひとです。
明治天皇や宮中と政府の間を取りもつ内大臣という特殊な大臣になりましたが、
二代目総理大臣の黒田清隆が辞職したあと、2か月だけ暫定で内閣総理大臣を兼務しています。
が、三代目総理とは認められていない模様。
調べていくといろいろと波乱に満ちた生涯なので、
今度また幕末から明治維新をやるのなら
このひとを主役にすると面白いんじゃないかと思ったりもしたり。
幕末に朝廷を掌握するも、失脚したあと山口まで長旅をして
長州藩のお世話になったりとかもしてますよ。
境内の外ですが、重要なものがありました。
本当はここが本殿だったみたいです。
八町というのは、一町が約 109.09 メートルらしいので、
だいたい 872 メートル四方ということになりますね。
東京ドームが 216 メートル四方だというので、
その4倍くらいの長さです。東京ドーム4個分。あれ、広さだと 16 個分?
もしかして上野公園より広い?
境内の説明文。
本殿がこちら。逆光でえらく神々しく撮れた。
左右にそれぞれ殿がある珍しい造りです。
現在の本殿は江戸時代の宝暦(1751~1764)に造営されたとか。
暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗が亡くなったのが 1751 年です。
右側にある北本殿が主祭神の蛭子命、八重事代主命、天穂日命(野見宿祢や菅原氏、土師氏、石津連の祖先)。
左側の南本殿は後に合祀した他社の祭神ですね。
タケミナカタ(大国主神の子)とホムタワケ(応神天皇・八幡神)、
そして靱(うつぼ)大神宮。
こちらも白蛇が飾ってあります。
じつは境内に白蛇社もあったりします。
ゑびすさまが腰掛けたとされる石も。
蛇のように絡み合った木もありました。逆立ちして脚を交差しているようにも見える。
裏口側は「式内 石津太社神社」。
石津神社は宮司がちょうど境内の掃除などされていたので
お話を伺ったり御朱印とかいただいたりしてきたのですが、
石津太神社のほうは社務所が閉じていたので、何も買わずに後にしました。
いや、呼び鈴鳴らせば出てきてくれたと思うのですが、
石津神社あたりから妹が暑さに負けてきたのか蚊に食われたからなのか
猛烈に機嫌が悪くなってきて、こちらも石津太神社ではさすがに汗がだらだら出てきたので
もう呼び鈴を押す気力が湧かなかったというか。
帰ってきてからちょっと後悔してますが、
まあその気になれば東京から3時間もあれば行けるところではあるので、
そのうち機会があればまた。
南海線の石津川駅近辺で自転車を返却し、
そのまま徒歩で阪堺線の石津駅へ。
南海電鉄といえば南海ホークス。
我々の世代だとやっぱり門田とかドカベン香川とかですよね。
無人駅の石津駅。
阪堺線って今宮戎の恵美須町から
石津の2駅先の浜寺公園がある浜寺駅前までつづく路線なのね。
ゑびすとゑびすを繋ぐ路線。
夏休みとはいえ平日昼間の無人駅に、我々以外に2名の待ち客。
乗車後もけっこう入れ替わりの激しい路線でした。
電車というより路線バスみたいな感じなのね。
石津北駅は車内アナウンスの英語でも「いしづきた」と読むせいで
「石津キター」みたいになっててちょっと面白かった。
帰りじゃなくて行きにこの線に乗るべきだったかもですね。
さて、石津神社で引いたおみくじは中吉。
金銭が日常的に豊かなのはありがたいですね。
取引は買いなのかー。
盆から9月くらいは夏枯れといって毎年株価が下がるらしいので、
下がりきったところで買いたいところではあります。
石津神社の御朱印。今年は紀元二六八五年なのね。
描かれている図は江戸時代 1796 年に出版された「和泉名所図会」の第二巻から。
この「和泉名所図会」、なんと早稲田大学のライブラリー Web サイトで閲覧できるので、
暇なひとは眺めてみるのもよいかもです。石津太神社のほうも載ってます。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_04749/index.html
※一番上にある画像をクリックすると読めます。
江戸時代には神社のすぐ隣をまだ綺麗な石津川が流れていて、
そこで晒した木綿が有名だったそうな。
御由緒。
宮司さんのお話では、石津神社と石津太神社のふたつがあるのは、
上石津側は農業、下石津側は漁業ということで
それぞれが自分たちの神社を持ちたかったのであろう、とのことでした。
云われてみればたしかにもっともなことです。
先にあったのはどうやら石津神社のほうらしい、とも。
まあ現在の石津太神社の位置は昔は海だったという話もありますし。
また、石津神社の前にある大通りは熊野街道なので、
古来より熊野詣での人々が多く往来したのだとか。
江戸時代の地図が見られるサイト「れきちず」で見たところ、
たしかに上石津側は熊野街道、下石津側には紀州街道が通っています。
https://rekichizu.jp/map?center=135.476579%2C34.56331&zoom=13.62&pitch=0&bearing=0
高野山から熊野大社という流れであれば熊野街道を通るでしょうね。
加えて、石津王は紀伊守だったということもあり、紀伊国とは縁が深そうです。
先の延喜式神名帳の注釈本には、
石津太の「太」はじつは「多」と同じく「オホ(オオ)」と読むべきでは
みたいなことが書いてあるんですよね。
まあ王は「ワウ」なので実際には違うかもしれませんが、
イシヅオオのヤシロの神社、と読んでいたとしたら
それはもう耳には「石津王の社の神社」としか聴こえないのではとか思ったりもしたり。
であれば、石津王に言及のある石津神社のほうが本体、
という可能性も大いにありそうな気がしますよね。しらんけど。
ちなみに石津神社と石津太神社の仲が悪いということもなさそうで、
宮司さんのほうからもうひとつ石津神社があるのご存じですか、と
お話いただいたり、道順を教えていただいたりしたので、
それぞれうまくやっておられるのではないかと思ったりです。
野見宿祢神事って相撲でもとるのかな。
せっかくなのでいろいろお迎えしてみました。
お札。木と紙と。
お守り。
裏は神紋の柏。周囲は雲かな。出雲だし。
あと、昔から何が書いてあるのか気になっていた神社暦を買ってみたりしてました。100円。
大阪府神社庁編、とあるので地域ごとに内容違うんでしょうね。
九星占いなんかも載ってます。11月くらいから調子よさそう。
広島原爆の日とか長崎原爆の日とかちゃんと書いてあるところは好感持てますね。
そっか、ちょうど立秋の翌日に参拝したのか。
阪堺線で住吉大社へ。
下関育ちなので住吉神社は馴染みの神社ではあります。
これで三大住吉でまだ行ってないのは福岡の住吉神社だけ。
遣唐使進発の地。
立派な石の鳥居です。
御由緒。
神功皇后の三韓征伐によって建てられたものなので、神功皇后も祀られています。
八幡宮といい、神功皇后にばかりお詣りしてる感はありますね。
下関では母がよくちょっと遠出の買い物のついでに
長府の忌宮神社に連れていってくれていたのですが、
その忌宮神社も神功皇后の夫である仲哀天皇が熊襲退治の遠征中に亡くなったので
遺体を一時保管して祀ったのがはじまりとされていて、
現在は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を本殿に祀っているのでした。
神功皇后はスーパーウーマンすぎるのですが、
いまでは右翼も左翼もちょっと言及しづらい存在になっちゃってる気がします。
まあ実在性も疑われているし、戦前を想起させるし、右翼は女性活躍が好ましくないし、
何より半島を征伐というのが左翼やマスコミ的にも振れたくないところなのでしょう。
実際、伝承でもいきなりみんなの知らない神様(住吉神)のお告げを聞いてしまい、
半島を攻めたら勝てる、いくぞ! とか言い出した皇后ですからね。いまの時代ではとても扱いに困る存在。
ただその子の応神天皇の時代に
百済や高句麗など外国との交流が活発になったとされているそうなので、
神功皇后が先導したかどうかはともかく、
三韓征伐そのものは実際にあったことなのかもしれないですね。
下関の住吉神社にもあった朱塗りの反橋。
とても急な段で子供たちがキャッキャしながら登るやつです。
もう 17:00 に近く、門が閉じられる直前のためか、
あるいは平日だからか、参拝客も控えめで静かな時間が流れています。外人は多め。
手水の水を吐いているのが兎さんでした。
創建が辛卯年の卯月の卯日というご縁で奉納されたものだとか。へー。
本殿前の鳥居は角張った石造り。ここの神額は「住吉神社」なんですね。
本殿。着いたらちょうど電気消されるところでした。
たぶんここを抜けていくと商売発達・家内安全の神様である宇迦魂命を祀った
楠珺社(なんくんしゃ)なのだと思うのですが、もう閉じられてしまってました。
住吉大社の御朱印です。
御朱印と一緒に入っていたのは源氏物語の明石の君の歌。
なんだつまらない身分でお詣りにきて悪かったな、とか思ったりしましたが、
どうもそういう嫌味ではなく、明石の君のエピソードが住吉神と大変関わりが深いからみたいですね。
教養がなくて申しわけないかぎり。
これは余談ですが、Google の航空写真で拡大してみると、
石津神社の本殿はやや南寄りの西向き、
石津太神社はやや南寄りの東向きに建っています。
多くの神社は太陽の南中する南向きに建っているかと思いますが、
もちろんそうでない神社も多数あり、きっとそれぞれの事情や都合があるのでしょう。
ただ、石津太神社はあきらかに海を背に建てられているようには思えますね。
住吉大社は西向きに建っているのですが、
その向いている先を地図でずっと見ていくと、
どうやら大阪湾の出口である明石海峡(明石と淡路島の間の海峡)に到達するんですよね。
航海を司る神として、これは大いにあり得るところかと思われます。
では、石津神社と石津太神社は?
石津太神社の背のほうをずっと延長していくと、
やはり明石海峡あたりを差しているのがわかります。
なので、もしかしたらこちらは海の神であるゑびすさまに向かって手を合わせるように
造られているのかもしれません。
一方、石津神社の背のほうをずっと延長していくと……。
え、そんなことが……。
なんと仁徳天皇陵の中心を差しています。
そして石津太神社が向いている先を辿ると、こちらは履中天皇陵の中心です。
ちょっと怖いですね。
石津の地はイシスと関係あるのか、古墳はやはりピラミッドから発案されたのか、
とかちょっと気になったりしますよね。甘いぞ遊戯!
事代主神は託宣の神でもあることから、
ちょっとイシス信仰とも近しいところあるかもしれないですね。
石津神社の裏手に乳岡(ちのおか)古墳というのがあって、
野見宿祢もしくは乳朝臣の墓と記されているそうなのですが、
「乳」という語がまたイシス感あったりするのかも。
だとすると一緒に祀られている大国主神がオシリスなのか。
まあたしかに最終的には常世の神となってるしな。
根の国の「根」がネフティスからきているというこじつけもできそうです。
するとセトは……瀬戸という言葉もありますが、
ここはむしろ暴風の神でもある素戔嗚尊を割り当てたいところかもしれません。勝てん。
ホルスはどうでしょうね。近くに大鳥大社があるので鳥繋がりでいけるかな。
日本武尊がホルスというのもありかもしれません。
猿田彦がトートというのは昔からよく云われてた気がしますよね。
そもそも飛鳥・奈良時代には法隆寺にペルシア人を表す伎楽面が存在し、
東大寺の正倉院にはシルクロード経由でペルシアのあれこれが渡来してきているわけですから、
西方の神話・伝説的なものも伝聞など何らかの形で流入しているとみるほうが自然ですよね。
あと、ゑびすの「ゑ」の字、本来は「we」と読むのですが、
「酔ふ」もまた「ゑふ」と書くんですよね。
なのでもしかしたら「ゑひす」で酒にまつわる神様だった可能性もなくもないかもしれません。
しらんけど。
船酔いのほうだとあまり広がりませんけど、
酒に酔うということだと、思い浮かぶのはやはりディオニュソス(バッカス)ですよね。
このディオニュソス、じつは死と再生の神でもあり、
オシリスと同一視されていたという話もあったりです。
そしてディオニュソスの死と再生の信仰が
オルペウス教という輪廻転生を謳う秘教に影響を与えたり、
またそこからピタゴラス教団が影響を受けたりと、
なかなか興味深い話がいろいろあったりでした。
オルペウス教はしかし、肝心の冥界下りでの
「振り向いては駄目」というエピソードはとくに重要視されないのだそうな。
一方、イシスは豊穣の女神デーメーテール(デメテル)と同一視されていたのですが、
このデメテルの娘ペルセポネーがハデスの妻となっています。
イシスはまた、ギリシア・ローマ時代には
アレクサンドリア港の守護女神や航海の守護女神としての性格を持つようになったとか。
なんかいろいろ関係ありそうでなさそうな、そんな妄想遊び。
そしてこれは関係ありませんが、
デメテルが海神ポセイドンに馬の姿で強引に孕まされて産んだのが名馬アリオンです。
そういう視点で見ると、西宮や尼崎のゑびす神社にある馬の像がまた違って見えてきて面白いですね。
なおこれはまったくの偶然だと思いますが、
奈良にある橿原神宮の背の方向をずっと延長していくと
岡山は備前長船のあたりにある石津神社に到達します。ふふふ。
まあ、いまの橿原神宮が創建されたのは 1890 年ですからね。
初代天皇である神武天皇と皇后のヒメタタライスズヒメを祀るための神宮です。
滋賀の琵琶湖畔にある草津市に、石津寺(せきしんじ)というのもあるらしいので、
いつか機会があれば寄ってみたい気もします。
なんでも天台宗の開祖である最澄が、一本の木から二体の仏像を彫りだし、
この石津寺を建ててそのうちの一体を本尊として据えた、とのこと。
そしてもう一体はなんと比叡山延暦寺の本尊になっています。
そんな由緒正しい本尊(薬師如来像)だったため、
今度は江戸幕府が成立したときに
江戸の都市設計をした天海僧正が上野の寛永寺を建てたとき、
この石津寺から本尊を(たぶん強引に)譲り受けて、寛永寺の本尊にしたのだという話です。
寛永寺の公式サイトの折々の情報のところ(2021-10-31)に書いてあるのでまあ間違いありません。
なのでいまでも上野公園の先にあるあの寛永寺では
その石津寺からきた最澄お手製の薬師如来像をご本尊としているわけです。
普段は秘仏として一部の檀家にしか公開していないそうですが、
2021年には東京国立博物館で展示されていたそう。気づくのが少し遅かった。残念。
お酒を飲むようになってから自分で買う缶ビールは基本的にヱビスビールでした。
とりあえず乾杯!
書きたいことの半分も書けてない気がしますが
もうかなり時間使ってるのでこのへんで。
マジカルエミはもちろん毎週観ていますが、
やっぱり毎話すごくいい。
あとルカルカ、部室にZガンダムありましたね。
であ。PR